凍みこんにゃく知っていますか?
凍みこんにゃくとは、
江戸時代、茨城県常陸太田市天下野町(けがのちょう)に丹波より伝わった伝統食材です。
厳冬期に藁を敷き詰めた田んぼに「こんにゃく」を敷き詰め、水を一日4回くらい掛けながら
天下野町(けがのちょう)の山間部の自然の冷気で、夜は凍り、昼間は溶ける行程を20日間繰り返します。
その後、7日間ほど水分を抜くために自然の中で乾燥して出来上がります。風が吹くと凍みこんにゃくが風で
舞い上がります。これが収穫のサインです。その後も手作業で収穫し、成形・包装して「凍みこんにゃく」に
なります。湿気を避けると50年以上保存できます。
この凍みこんにゃくは丹波国より常陸太田市天下野町(けがのちょう)に江戸時代に伝わった伝統食材です。
全国的にも珍しい、幻の食材と言われている「凍みこんにゃく」の歴史をお伝えします。
歴史を語るうえで天下野町の江戸時代の択捉島探検で有名な探検家、医者であり、農政家の
「木村謙次」を抜きには語れません。
木村謙次は宝暦二年(1752)天下野の八左衛門昌尚(まさなお)の第四子に生まれました。
常陸太田市天下野町の「凍こんにゃく」は*木村謙次が丹波の国(京都・兵庫)から寛政7年(1795年)に
天下野高陽(こうよう)(現常陸太田市天下野町)の根本喜兵衛に伝えたとあります。(参考:水府村村誌)
水府村教育委員会編纂の「探検家農政家 木村謙次」にも「謙次は農村を救うためには、産業をおこすことも
大切だと考え、しみこん製造の方法などについても、丹波の国(京都・兵庫)で学んできて、その改良にも、
つとめました。」とあります。
当時の農村では百姓が生活苦から赤ん坊を間引きする風習があった。この状況を改善するために
木村謙次は藩への提言や、農業振興をおこないました。その一つが「凍みこんにゃく」の製造だったのです。
農家が凍みこんにゃく製造することにより、少しでも農家の「貧しさ」からの抜け出す方法として伝えたと
考えられます。
天下野町の「凍みこんにゃく」の製造には「木村謙次」の地元農家への「強い思い」があったと思われます。
その後、何十件もの農家が「凍みこんにゃく」製造に携わり冬の天下野町の農家の一大産業になりました。
参照:水府村教育委員会「探検家農政家 木村謙次」
凍こんにゃくには厳冬期の寒さで夜は凍り、昼間は解ける自然環境が必要です。この自然環境が丹波の国と
天下野町が似ていたのです。
その後、茨城県常陸太田市天下野町(旧、水府村天下野)では昭和の初めにはは50軒くらいの農家が冬
の農閑期を利用して「凍こんにゃく」を作っていました。しかし戦後、厳冬期の重労働と高齢化で一軒一軒と
消えていき,1984年 (昭和59年)には、近くの農家で作るのみ,この地域で一軒になっていました。
戦後の高度成長に伴う、隣町の「日立市」の発展と農家のサラリーマン化と兼業農家への大きな変化も
厳冬期の副業としての凍みこんを製造する農家の減少に大きく影響したと容易に想像できます。
その最後の一軒の農家も高齢で来年は作らないと聞きました。そこで地元の伝統食であり、
「幼いころのからのご馳走をなくしちゃならん」と50代から凍こんにゃく作りに手を染めました。
本業の農業と「蒟蒻」製造の技術を生かして「凍こんにゃく」作りを開始しました。しかし数年間は失敗の連続の
繰り返しで、「失敗」を先生として励んでまいりました。
その時点、1985年には伝統的なj方法で凍みこんにゃくを作る農家は全国でも私ども一軒になってしまいました。
地元天下野町に200年以上前に「凍みこんにゃく」を伝えた「木村謙次の思い」を胸に地元の伝統食を守るために
精進しております。
現在では隣の大子町でも2社の業者さんが凍みこんにゃくを作っています。
西では播磨の多可町にて明治時代より凍りこんにゃくを使い、主に洗顔用を作っている業者さんが
います。( 関西では、こおりこんやく(凍り・氷こんにゃく)と呼ばれています。)
ぜひ、湿気を避けると50年以上保存できる「凍こんにゃく」をご賞味ください.
「いにしえ」の人の考えた究極の保存食です。
美味しく料理にしてください。
現在、凍みこんにゃくのルーツを調べています。木村謙次が1795年に丹波の国より凍みこんにゃくを
天下野町に伝えたとあります。具体的に丹波の国の具体的にどこの市・町なのか調べています。
そこで事前準備として昨年より旧丹波国に属する市・町と近隣の市・町を含めてアンケートを送り
9つの市・町から回答を得ました。
その情報を基に2020年11月には丹波国に現地調査をおこないました。
凍みこんにゃくの歴史情報のある方はお知らせください。
「凍こんにゃく」のホ-ムペ-ジを作った2003年には全国で一件も「凍こんにゃく」や「凍みこんにゃく」で
のカテゴリーのWebはありませんでした。、
その意味で、この「凍こんにゃく」でのカテゴリ-では日本最初のHPになります。
2020年12月23日
2021年1月2日 外の気温はマイナス5度です、朝7時42分
サイト マップ
凍みこんにゃくへのリンク:
*凍みこんにゃくの伝統を守って。
*凍みこんにゃく料理の研究家・嫁(か)
*凍みこんにゃくブログ
*Shimikonnyaku (English)
*Japanese Vegitarian Wonder-Food ( English)
外部リンク:
農林水産省「うちの郷土料理」
茨城県「冬凍こんにゃく」(常陸太田市)
茨城県「凍みこんにゃく」令和3年2月12日放送分
常陸太田市認証特産品
常陸太田市物産観光協会
NHK Cool Japan 「冬の風物詩 Winter Traditions]
NHKWorld
「Through the Kitche Windopw」で
「Shimi-konnyaku Ibaraki」が2021年の6月24日と27日に再放送されました。
2022年3月24日にはNHKBSで日本語訳で紹介さ入れました。
木村謙次(1752-1811)とは
宝暦二年(1752)天下野の八左衛門昌尚(まさなお)の第四子に生ま
れた。謙二は常に意を殖産興業に注ぎ、諸富野(もろとの)現、久慈郡山方町・高倉地方の重要産物である
こんにゃく栽培の発展に力を尽くした。
かつて関西地方に遊んだ時丹波の国(京都・兵庫)でしみこん製造が盛んに行われていることを聞き、
立ち寄って親しくその製造販売の法を調査して帰り、寛政七年(1795)、これを天下野高陽(こうよう)の
根本喜兵衛に伝え、ますます改良普及に努力したので世の賞賛を博し、同地方の一大特産物として栄える
に至った。(水府村誌 P。557引用)
文化二年(1805)の高倉・東両村の「地理書上帳」には産物の中に氷蒟蒻を記している。(水府村詩 P.292引用)
「高倉郷土誌」によると明治40年(1907)の旧高倉村における凍こんにゃく製造農家は14,15件とみている。
(水府村誌 P.390引用)
木村謙次はエトロフの探検家としても有名です。
木村謙次HP:
以下の写真は木村謙次の生誕の地や墓は当方から300mくらいの位置にあり、最初に「凍こんにゃく」が伝えられた
根本喜兵衛氏の天下野高陽は同じ町内で500mくらいの位置にあります。既に「凍こんにゃく」は天下野町内に
伝えられて多くの先人の努力により250年以上の歴史があります。
木村謙次の墓 (常陸太田市天下野町)
この看板は水府村教育委員会の建てたものです。
説明の記述に木村謙次と凍みこんにゃくが
記述されています。
右は水府村教育員会編纂の「木村謙次」です。
現在は合併により常陸太田市になります。
水府村発行(現常陸太田市)「水府村誌」
昭和46年3月31日発行
凍みこんにゃくは先人の考えた究極の保存食。
この写真の凍こんにゃくは下高倉の井上伊佐雄さんが昭和23年
(1948年)に製造したものです。
既に75年経っていますが、美味しく食べられます。
先人考えた究極の保存食です。いわゆる「50年凍こんにゃく」です。
凍こんにゃく畑 (冬と秋)
朝、こんにゃくが凍っています。(写真 2008年1月2日)
厳冬期、凍ったこんにゃくを一枚、一枚返している。